by nakao627e
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ブラリ!兵庫津②-大輪田泊・経ヶ島築造・清盛の夢(2017-09-08)
(続き)先日、岡方会館に行く前に「経ヶ島」を探して?「松王丸伝説」のある兵庫の築島寺(来迎寺)を訪ねました。何十年ぶりでしょうか。少しおさらい!をしてみましょう。 平清盛の時代の兵庫津は、大輪田泊と言って結構賑わっていたようです。若い頃から、「大宰少弐」に任官するなど、西国に縁があった清盛は、そこに目をつけ、「日宋貿易」に力を注いで、平家の「金と力」を蓄えてきました。 清盛の大輪田泊修築は、前後二回行われており、一回目は、数年を費いやし、経ヶ島を築造し、承安3(1173)年に完成させています。大輪田泊は、西側に和田岬があるので、西風は防げるが、東南の風をまともに受けると、泊内に大波が立ち、難波する舟も少なくなかったのです。そこで、泊内の南側に巨大な防波堤(経ヶ島)を築き、船舶の安全をはかろうとしました。 この経ヶ島の築造は、現在のポートアイランドや六甲アイランドの設計思想の一つである港を東南の風から守るという点で、同じであることが、大いに興味深いものがあります。(写真:神戸市役所24Fからポートアイランドを望む) 兵庫には、この経ヶ島の築造にまつわる美しくも悲しい松王丸の人柱伝説が残っています。すなわち、経ヶ島築造の際、海が荒れ、工事はなかなか進みませんでした。これは「海神のしわざ」である、ということで、その怒りを静めるため、「三十人の人柱」と一切経を書いた石を沈めることとなりました。松王丸は、捕われて嘆き悲しむ三十人の身代りとなって進んで「人柱」となったところ、海神の怒りは収まり、工事は順調にはかどり、経ヶ島は完成したと伝えられています。 兵庫の新川運河のほとりにある築島寺(来迎寺)は、この松王丸の菩提を弔うため、二条天皇の勅命で創建されたと伝えられています。「松王小児入海之碑」があります。子供のころには「松王丸の墓」だと思っていました。(写真) 子供の頃、夕方になっても遊び呆けていて、食事時になっても家に帰らない私を呼びにおふくろが「早く帰って来ないとキヨモリが来るよ!」と言って、探しにきたことがありました。「人柱」の話を聞いていたので、怖くなって飛んで帰りました。ひょっとしたら、母は、松王丸の話を省いて、「三十人の人柱」の話を強調して、「キヨモリに捕まって人柱にされてしまうぞ」という事にする母の改作だったのかもしれませんが・・・(笑)。 なんせ、子供の頃、清盛は、「極悪非道」の大悪人で、奥さんがいるのに権力にものを言わせて白拍子の「妓王・妓女」を寵愛したり、怪しからん!奴だ」と思っていましたので(笑)・・・。この寺には、「妓王・妓女の塔」(写真)があります。中学生の頃は「なんであるのだろう」と思っていましたが、今回ゆっくりと「説明看板」を見てわかりました。「妓王・妓女」は晩年に、この寺の末寺で平家一門の菩提を弔った、ということだそうです。(写真) 大人になって、日本史や「平家物語」を学んで、平清盛に対する見方は大いに変わってきました。確かに「権力者」で、酷いことをしていますが、「経ヶ烏の築造、日宋貿易、福原遷都、和田新京構想」などの現代にも通じる「港湾建設、国際貿易、都市計画、都市経営」などをじっこうする、スケールの大きな政治家だったのだな、と思います。 この一回目は、清盛の私財を投じて行われたが、二回目は、国営を願い出て、治承4(1180)年2月、勅許されて実施されました。この工事は、前に築造した経ヶ烏が、波浪のため破壊されたので、修築するのが目的でありました。ところが、その三ヵ月後の五月、以仁王の変が起り、平家打倒の動きが活発になってきました。同6月、福原遷都ものの、11月には、京都へ都還りをするなど、あわただしくなり、そのまま放置されたままになってしまいました。 しかし、大輪田泊は、平家滅亡後、建久7(1196)年、東大寺の僧重源により、国営で修築され、後の「兵庫津」、「神戸港」へと発展していくことになりました。今の神戸港の繁栄ぶりに清盛の夢は達成されたと言えるでしょう。 大輪田泊は、奈良時代に行基が築造したと、伝えられています。昭和27(1952)年、新川運河の浚渫工事の際に出土し、「経ヶ島」の遺材ではないか、と考えられていますしたが、平成15(2003)年にこの石材の発見された近くで、平安中期以前の港湾施設と考えられる遺構と建物の一部が発見され、この巨石は、古代の石椋(いわくら:港湾施設)の石材と推定されています。 という事で、経ヶ島の場所は築島寺のある兵庫区烏上町付近と推定されていますが、「地下で眠っていて」よく判っていません。 #
by nakao627e
| 2017-09-08 12:29
| 日常生活
昨(3)日、神戸市交通局主催の昔懐かしい「ボンネットバスツアー」が岡方会館にも寄ることを知ったので、50年来の念願だった兵庫の岡方会館に出かけました。 その会では、郷土史家の川辺賢武先生のご挨拶や落合先生のお話、編者の石阪孝二郎さんの報告などがあり、非常に興味深い内容でした。すなわち、江戸時代の兵庫津の人口が約2万人で、岡方、北浜、南浜の三つに分かれ、それぞれに惣会所を,没置し、町民による自治が行われていた、ということ。そして、その岡方にこの記録が残っていて、石阪先生が岡方会館の倉庫の中で、埃にまみれ眠っていた記録を発見、虫食いを和紙で裏打ちしながら、苦労して解読され、兵庫岡方古文書刊行委員の皆さんのご協力により『朝鮮信使来朝帰帆官録』として出版された、ということなどでありました。 その時に頂いた『朝鮮信使来朝帰帆官録』によって、宝暦14(1764)年の朝鮮通信使(第11次)が、徳川家治の将軍襲職を慶賀するために朝鮮国王の国書を奉じて来日したもので、その兵庫津における迎接準備、来着と帰国時の送迎の状況やその一行が、一流の学者・文化人から選ばれた正使、副使、従事官、通訳、製述官(文書の起草担当)、医師、画家などの他、楽隊や曲技団も加わり、480名で構成されていることなどを知ることができました。これが、「朝鮮通信使」を調べてみるきっかけになりました。 #
by nakao627e
| 2017-09-03 17:59
| 日常生活
往く8月に思う(2017-09-01)
毎年8月から9月にかけては「戦争と平和」を強く意識します。8月6日の広島・9日の長崎への原爆投下、15日の終戦、そして、9月2日戦艦ミズーリ艦上での「降伏文書調印」による敗戦、進駐軍による日本占領と。歴史のかなたにありますが、たった70数年前のことです。なぜ小生が「強く意識するか」といいますと、昭和19年私が生まれた少し後で、長兄が東シナ海で戦死をしていることも関係があります。彼は、まだ20歳になったところでした。 この戦争で、アジア太平洋の国々に多大の人的・物的損害を与えました。この加害の事実も決して忘れてはいけないのです。私は、昭和19年生まれですから、「戦争の記憶」は全くありません。まだ1歳の誕生日を迎えた昭和20年、沖縄での地上戦は終わり、次は九州上陸が言われていた時に、九州に家族で疎開をしました。26年小学校1年生になった時、神戸に帰ってきました。そのころの神戸には、まだ焼け跡が残っていました。当時、兵庫区に住んでいましたので、金網のフェンスに囲まれた米軍のウエストキャンプ、バックヤードキャンプ、アメリカの兵隊さんをおぼろげに記憶しています。 昭和28年、単独講和を結び、日本は主権を回復しました。そして、日本国憲法のもと「平和国家・日本」の国づくりが進められてきました。これは❝平坦な道❞ではありませんでしたが、憲法を改正して、再軍備が図られることはありませんでした。ただ、❝専守防衛❞の自衛隊の存在は大きくなってきましたが…。 小生が教員になって、若い学生諸君や留学生諸君とともに学んでいるとき、いつも彼らが戦争に駆り出されない平和な日本であってほしい、平和な世界であってほしい、という一念で「観光学」を講じてきました。「観光は平和でなければならない。観光を盛んにすることで、平和な世界を!」と、そして、ユネスコ憲章にある「❝人々の心に平和の砦❞を築こう」「日本国憲法の精神で平和な国づくり」を必ず強調していました。ただ、近年❝雲行き❞が怪しくなってきているのは、非常に気がかりです。 そこで、今年はぜひ、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」にお参りしようと、先日行ってまいりました。ここには、先の大戦で戦災に遭った市民も含め、約310万人の戦没者を慰霊するための施設です。皇居の傍の静かな墓苑で、「平和を願い、最敬礼」してまいりました。戦没者の皆さんの無念を思うと、絶対に「戦争をしてはならない」と思いを新たにしました。 写真は、案内板だけにしておきます。 #
by nakao627e
| 2017-09-01 11:00
| 日常生活
ブラリ! 新開地 ー ❝新開地の味❞(2017-08-23)
平野の祇園さんから福原京・旧跡を巡って「ええとこエエトコ新開地!」にやってきました。いま地元・新開地では常設寄席「喜楽館」が着工され、❝新開地のまちづくり❞が大いに盛り上がっています。今後ますます盛んになりますよう期待しています。 ある日「春陽軒」はどうなっているかと、行ってみましたら、駐車場に変わっていました。「やっぱり」と横を見ると、「豚まん」専門の「春陽軒」ができていました。感激して「豚まん」を食べたのは言うまでもありません。 今回もぶらぶら歩いていますと、やはりここで「豚まん」が食べたくなりました。新開地には、小学生上級生のころ、すぐ上の兄の❝古本屋巡り❞によくついていきました。兄貴は本が好きだったのですが給料が少なかったので、もっぱら古本でいい本がないか、と探していました。こっちはあまり関心がありません。退屈だったのですが、帰りの「春陽軒」での「ラーメンと豚まん」につられて、よくついていきました。今から約60年前の少年時代のことです。 当時の中華料理屋「春陽軒」は、新開地でもそこそこの店でした。確か2階まで客席があり、たくさんのお客さんで、結構にぎわっていました。初めてソフトクリームを食べて「こんなうまいもん初めてや」と感激した記憶もあります。 その当時、「春陽軒」ではもっぱら「ラーメンと豚まん」が好物でした。その「春陽軒」も30年以上も前(40年ぐらい前?)に店を閉められ、がっかりした記憶があります。懐かしいので、「豚まん」2個を食べさせていただきました。おいしいですよ。神戸でも1・2を争うおいしさですね。 社会人になってからは新開地には足が遠のきましたが、環境局北事業所勤務の3年間は、よく新開地に出没!していました。「先日からのブラ歩き」の締めくくりは、やはり「高田屋京店」です。全くの大衆居酒屋です。昔と全く変わりません。❝名物おやじ❞を見かけないのはさみしい限りです。ここでは現場の人たちと仕事が終わって、よく❝飲み会❞をしました。みんな「呑み助」でした。こちらも若かったので、「負けじ」とよく飲みました。ここの「おでん」が最高!です。とくに「豆腐に味噌だれ」が大好きです。今は、この程度で、「あまり飲めなく」なりました。「ざあーんねん!!!」 #
by nakao627e
| 2017-08-23 11:46
| 日常生活
ブラリ! 新開地 ー ❝新開地の味❞(2017-08-23)
平野の祇園さんから福原京・旧跡を巡って「ええとこエエトコ新開地!」にやってきました。いま地元・新開地では常設寄席「喜楽館」が着工され、❝新開地のまちづくり❞が大いに盛り上がっています。今後ますます盛んになりますよう期待しています。 ある日「春陽軒」はどうなっているかと、行ってみましたら、駐車場に変わっていました。「やっぱり」と横を見ると、「豚まん」専門の「春陽軒」ができていました。感激して「豚まん」を食べたのは言うまでもありません。 今回もぶらぶら歩いていますと、やはりここで「豚まん」が食べたくなりました。新開地には、小学生上級生のころ、すぐ上の兄の❝古本屋巡り❞によくついていきました。兄貴は本が好きだったのですが給料が少なかったので、もっぱら古本でいい本がないか、と探していました。こっちはあまり関心がありません。退屈だったのですが、帰りの「春陽軒」での「ラーメンと豚まん」につられて、よくついていきました。今から約60年前の少年時代のことです。 当時の中華料理屋「春陽軒」は、新開地でもそこそこの店でした。確か2階まで客席があり、たくさんのお客さんで、結構にぎわっていました。初めてソフトクリームを食べて「こんなうまいもん初めてや」と感激した記憶もあります。 その当時、「春陽軒」ではもっぱら「ラーメンと豚まん」が好物でした。その「春陽軒」も30年以上も前(40年ぐらい前?)に店を閉められ、がっかりした記憶があります。懐かしいので、「豚まん」2個を食べさせていただきました。おいしいですよ。神戸でも1・2を争うおいしさですね。 社会人になってからは新開地には足が遠のきましたが、環境局北事業所勤務の3年間は、よく新開地に出没!していました。「先日からのブラ歩き」の締めくくりは、やはり「高田屋京店」です。全くの大衆居酒屋です。昔と全く変わりません。❝名物おやじ❞を見かけないのはさみしい限りです。ここでは現場の人たちと仕事が終わって、よく❝飲み会❞をしました。みんな「呑み助」でした。こちらも若かったので、「負けじ」とよく飲みました。ここの「おでん」が最高!です。とくに「豆腐に味噌だれ」が大好きです。今は、この程度で、「あまり飲めなく」なりました。「ざあーんねん!!!」 #
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| 2017-08-23 11:45
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